NEVER END.

https://youtu.be/e3TtPK-0B-s

 アイナ・ジ・エンドである。

 基本的に僕はアイドルに関心がない。
 意外と曲が良いとか(実際、僕が好きなバンドやミュージシャンが曲や歌詞を提供してたりすることもあるようだ)、ダンスパフォーマンスが凄いとか、アイドル好きな人たちにもいろいろ言い分はあると思うが、アイドルうんぬんの前に曲やパフォーマンスが耳にも心にも入ってこないだけなんだ、すまんな。

 10年弱前には、何かで偶然見かけたPerfumeの『コンピューター・シティ』の楽曲とPVに衝撃を受けて、そこから少しの間はPerfumeの曲を聴いたりMVを YouTubeで漁ったりしていたことはあるので、なにも頭ごなしに「アイドルなんて軟弱な音楽なぞ聴くべきではない」なんて時代錯誤なマッチョ的思考をしているわけではなくて、単純に音楽として、作品として、あ、これ好きかも、と思えるものが"圧倒的に"少ない、というだけのことである。個人的に。

 そんな中である。

 ここ最近は邦楽でいうとAwesome City Club、羊文学、chelmico(というか鈴木真海子)、あとはちょろっとTempalayとかDENIMSとかそのへんをメインに聴いていたのだが、ある時ふと、ポカリスウェットのCMソングのために作られたユニット、A_oの楽曲を聴いて、ヴォーカルの声に耳を持って行かれた。

 それがアイナ・ジ・エンドという変わった名前の子だった。
 そこから流行りのTHE F1RST TAKEで彼女が属するグループの楽曲である『オーケストラ』を聴き、彼女のソロ曲である『金木犀』を聴き、そこから遡ってBiSHの楽曲を数曲、YouTubeで聴いたときには、すっかりハマってしまっていた。
 流行りの言葉で言えば沼ってしまったのである。

 BiSHについて話し出すとボリュームが多くなりすぎるので今回は割愛するが、バックバンドの演奏力や楽曲の出来の良さはもちろんのこと、やはりアイナ・ジ・エンドの歌の迫力(と彼女の振り付けによる演出力)が段違いだなと個人的には思っている。
 もちろんグループの心臓と言われるセントチヒロ・チッチもかなり上手い部類に入ると思う。アユニ・Dのロリータ・パンク・バンドのヴォーカルみたいなキッチュさも捨てがたいし、他のメンバーも(キャリア後半においては)その他の凡百のアイドル・グループと比べても良いものを持っていると思う。

ただ、アイナの歌はもう、アイナでしかなし得ない世界観を獲得していて、換えが効かないのだ。
 誤解しないで欲しいが、他のメンバーなら換えが効くという意味ではない。これだけの存在感をもつアイナが、良い意味で突出しすぎないあたりがこのグループの底力であり、素晴らしさだと思っている。
 しかし、少しでも歌を志したことのある人なら分かると思うが、アイナの歌は、そこを目指して努力したからといって到達できるとは限らない、ある種の残酷な現実の先にある理想郷のようなものなのだ。
 先天的な、ギフテッドな才能と、それを磨き続けた努力という後天的な才能の両方を併せ持った者にしか辿り着くことのできない場所に、アイナの歌は到達していると思う。

 椎名林檎みたいとか、YUKIみたいとか、CHARAみたいという声もあるが、本人もそれらのアーティストの影響があることを明言しているし、彼女が作詞作曲した曲にもその影響は見てとれる。
 ただ、女性のいわば隠の部分とも言うべき情念を拡大したような椎名林檎アナーキーなパンクネスと、逆に明の部分とも言うべき愛嬌をデフォルメしたようなYUKICHARAのスウィートネスの両方をほぼイコールなレベルで表現しきれてしまうアイナの振れ幅の広さは、偉大な先輩達ともまた異なる存在感を獲得していると言えるだろう。

 そして冒頭の『ペチカの夜』である。

 この曲はすさまじい。
 前述したような、彼女のもつアナーキーなパンクネスとスウィートネスを完全に自分の内なるものとして消化した挙句、これまで彼女が聴いてきた様々な音楽のジャンルをクロスオーバーしながら、アイドルとして、ファンとのつながりを大切にしてきたからこそ獲得しえたポップネスを併せ持つメロディとヴォイスがそこにはある。

 共同プロデュースしたオカモトレイジ河野圭によるアレンジも秀逸だ。
 ネオ・ソウル的な導入部とクールで簡素で少し粘っこいリズムに、オルタナ的なギター・リフが乗る中を自在に泳ぐアイナのヴォーカル。
じわじわと熱量が高まりながらも、いったん呟くような、それでいてギターのカッティングのような切っ先を感じさせるヴォイスが印象的な最後のブリッジを終えて一気に感情を叩きつけてくるようなラストの大サビへの流れは圧巻だ。
 もうここまでくると、切ないような、寂しいような、でも身体は火照りに火照って何か大声で叫んだあとのような、様々な感情でぐちゃぐちゃである。
 何かしたいけど出来ない、会いたい誰かに会えない、無力で無気力な自分に苛立ちと虚しさを覚えて、泣きたくても泣けない、たとえ泣いたところで何も変わらない、あのもどかしい孤独な夜。
 そんなどうしようもない自我を、ギターとストリングスとリズムの波があっという間に連れ去っていく。
 僕らはただその波に飲まれ、揺られ、捨てたくても捨てられない感情という困ったモノと一緒にその中でもがき泳ぐだけしか出来ない。

 しかしそんな中でアイナはそっと歌う。

"ここからどうか出よう
 さ、どうか
 泣けてきちゃったから"

 時に僕らを困らせ、引きずり回し、打ちのめす"自我"。
 でもそこから僕らを救い出す崇高な意志もまた、自分のなかにしかない"自我"の力なのだ。
 彼女はけっして"光のさす未来へ"などというような非現実的な逃避を促しているわけではない。
 思索に耽る孤独なペチカの夜を終えて、"我に帰ろう"と歌っているに過ぎないのだ。
 そう、しかもそれはシンプルに自分自身に対して。

 目指すものと自分の現実の乖離に何度となくぶつかり、それでもそこに向き合い、折れそうな心を抱えながら抗い続けてきた彼女だからこそ、あの狂気さえ感じさせる圧倒的なパフォーマンスと、まるで近しい人のそれに思えてしまうほど無防備で無邪気な女の子の笑顔のどちらも見せてくれる彼女だからこそ歌える、この"我に帰る瞬間"の残酷さと優しさ。

 仮想現実的な見映えのいい未来や理想郷を無責任に表現してきたアーティストは数多くいるが、自我のもつ功罪をこんなふうに表現できたアーティストは数多くはないだろう。


 感情が昂りすぎて長文になってしまった。
 とにかく、アイナ・ジ・エンドは凄い。

 こんな凄まじい曲作りながら、"サボテンガール"のあの可愛さはなんなんだよ。
 女って怖えな、、、。

最後の夜が来る前に

Last Dance

Last Dance

 

なんかあっという間に細分化されて、ファンが散らばった結果、早くもしぼみ始めてる感が満載なシティポップ界隈ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。

 

俺は色々漁っている中で出会ったバンドがたまたまシティポップと名付けられたジャンルに属していて、たまたまその時はそのへんが気分だったわけなので、そればかり聴いてるわけじゃないし、なんなら最近知り合った女の子がパンク好きだったりするもんで、久々にeastern youthとかHUSKING BEEとか聞き直しちゃったりもしてるわけなんですが、それにしても、ほぼアイドルとアニメとボカロとLDH系とK-POP系と次世代イロモノ系に侵食されてしまった邦楽シーンにおいて、久しぶりに創作力と想像力と程よいポップセンスとねじれ感をもったバンドが盛り上がってきてるなーとほくほくしていた矢先なので、ここ最近の流行の移ろいの早さに諸行無常の響きを感じずにはいられません。

 

あんだけ騒がれてたSuchmosとかどこ行ったよ。

ちやほやされ過ぎるのも嫌だけど、かと言って売れないのも困るからって、叙情系なブルーズのアルバムとか作っちゃって、完全に迷走し始めちゃってるじゃんかよ(批判を恐れているわけじゃないが、俺はSuchmos嫌いではないです。でも完全にブレイク前後の、俺らカッコいいことしかやらないんで的な姿勢から生まれたある種の開き直り的なポップネスは間違いなく失われてしまったと思う。NHKの罪は深いよ)。

 

我がAwesome City Clubもいまひとつブレイクしきれないし、yogeeとかceroとかこじらせ系カルチャー女子にしか受けねぇもんなあ、完全に。

 

ってなわけでシティポップというジャンルは、目立った旗印となるアーティストがいないまま、ストリームとしては1本の太い筋になれず、各々が好き勝手に発信して好き勝手に受信して、というインディな流れに戻ってしまっているわけです。

だよね?

だって、シティポップ代表的なアーティスト挙げてみ?

ヒルナンデスとかの視聴層に話してもぜったい伝わらないよ?

 

とまぁ、そんな感じで相変わらずネガティブな書き出しをした訳ですが、そんなシティポップ界隈で、なかなかいいじゃんと思ったバンドを紹介します。

 

Tempalay。

男2女1の3人組で、生演奏と打ち込みやサンプリングをミックスした、ヒップホップ的なサウンドメイキングを駆使しながら、サイケデリック的だったりヴェイパーウェイヴ的だったりする、儚げで、退廃的で、脱構築的で、でもどこかキャッチーなポップネスを含んだ音楽を鳴らしている彼ら。

んー、分かりやすく言えば髭っぽいサイケデリアをceroっぽいサウンドメイキングで鳴らしてる感じだろうか。え、分かりやすくないって?

 

で、僕は彼らの『Last Dance』と『革命前夜』という2曲が特に好きで、一時期好きでよく遊んでた女の子に、同棲していた彼氏と結婚するからってフラれた時に繰り返し聴いて鬱になってたりもするわけです(要するに二股っつーか浮気相手にされてたわけなんだけどいいじゃねーか少しくらい夢見たって)。

 

俺の失恋と彼らの音楽は関係ないだろと思われるかもしれないが、もちろんそりゃそうだ。

でも、Tempalayの凄さは、実はここにこそあるんじゃないかと思っているわけです。

 

彼らの作品の世界観は、もちろんミレニアル世代特有の、ディストピア思想や、未来に安易な希望を抱けないがゆえの逆説的楽観主義が基盤になっていると思われ、事実、歌詞の中にもたびたび世界の終わりや破滅に言及したフレーズがしばしば散見される。

しかしそこには今を楽しむという刹那的なポジティヴィティや、恋人や気の合う仲間との時間、アーバンライクな情景やクラブシーンなどを彷彿させる単語も羅列され、退廃的だったり諦観的だったりしながらも、不思議とそこに破滅的な暗さは感じられないのだ。

 

だからまったくパーソナルではない、どちらかといえば徹底的な客観的視点からの描写であるにもかかわらず、好きな女にフラれたという極めて主観的な気分にさえコミットしてしまうという、開かれた部分がそこにはあるのだ。

 

この閉じられていない世界観こそ、ポップネスを獲得するのに不可欠な要素であり、聴く者の心理状況を投影できる余白を持ちながら、なおかつ自分達の心情を反映させるタフな音楽観を持ち合わせることで、Tempalayはリスナーに共感覚的な情景を見せることが出来るし、だからこそキャッチーたりえているのだろう。

 

とはいえ、安易な予定調和を回避するべく組み上げられた、プログレッシブ的な構成や、カルチャー好きな洋服屋のにーちゃんねーちゃん的なヴィジュアルは、本当の意味でのポップアイコンには程遠いし、彼らがシティポップの旗頭たりえるとは到底思えないので、引き続きシティポップ界隈に漂い始めているアングラ感、マイノリティ感が再び払拭されることはないんだろうけど。

 

まぁ、でもこれがSNS社会ってやつなんでしょうね。

最近のヒットチャートとか本当によく分からないんだけど、別にそれで困ることとか(職場の飲み会からのカラオケ二次会でも行かない限り)ぜんぜんないし。

 

ネガティブなんだかポジティブなんだか、褒めたいんだか貶したいだかよくわからない文章でした、今回は。

以上。

COFFEE IS MY GIRLFRIEND.

コーヒー好きです。

もうね、ジャンキーなんだと思う。

飲まないとなんとなく落ち着かない。

カフェインアディクションなんだとしたら笑えない話だけれど、特に身体的な不具合は感じないので良しとしよう。


元々は母親がコーヒー好きで、あちこちの喫茶店に連れて行ってもらったのがきっかけ。

なので、僕のコーヒー歴のスタートというのは、いわゆる喫茶店文化的な、深煎りの豆をじっくりドリップしたコーヒーから。


その中でも特に京都のイノダコーヒが好みで、札幌に住んでいた時は大丸と、すぐ近くの紀伊国屋の中にあったお店に通っていたし、家でもイノダコーヒの豆を買って飲んでいた。


その後、スターバックスが流行していたこともあって、タリーズ等のシアトル系コーヒースタンドで中〜深煎りの豆をエスプレッソで抽出したカフェラテを飲むようになったのだが、たまたま仕事のつながりでノルウェー発のフグレンさんに店頭(ちなみに僕の職業はいわゆるショップスタッフである)でのデモンストレーションをしていただく機会があり、そこで僕の中のコーヒー観が大きくアップデートされることになる。


僕は特に何かに対してマニアックに追求するタイプではないのだけれど、それまでの体験もあって、コーヒーといえば自家焙煎した豆をネルドリップした喫茶店系コーヒーか、中〜深煎りの豆をエスプレッソで淹れたシアトル系コーヒーと思っていた。


ところがそのときに飲ませてもらったフグレンのコーヒーは、浅煎りの豆をペーパーフィルターでさーっとドリップした、見た目の色からして僕がそれまで知っていたコーヒーとは似ても似つかない紅茶色の飲み物だったのである。


そしてそれを飲んだ時の衝撃。

ぶっちゃけ思いましたもん。

え、これコーヒー?って。


でも、そのすっきりとした味わいと、コーヒー豆って豆っていうけど果実だったんだなと思い出させてくれるフルーティな酸味にハマり、それ以降はすっかり浅煎りコーヒーに傾倒していくことになるわけです。


ちなみにシングルオリジンのスペシャルティコーヒーは、基本的にドリップでストレートに飲むのが豆本来の味を楽しめるわけなんだけれど、個人的には浅煎りの豆を使ったカフェラテもおススメしたい。


先のフグレンさんの代々木八幡のお店に行った際には、最初はいつもカリタウェーブのドリップで飲んでいたんだけれど、ある日ふとカフェラテがあることに気づいて、試しに飲んでみたらこれが滅法うまかったわけです。

カフェラテ、というかエスプレッソはなんとなく中〜深煎りの豆を使うっていうセオリーがあると思うんだけど、そんなのただの思い込みなんだなって感じるほど、浅煎り豆のカフェラテは表情豊かな味わいで、もうそこからはカフェラテも浅煎りに限る!っていうところまで来てしまっています。


その観点から、フグレン以外のお気に入りのコーヒースタンドをいくつかご紹介しておきます。


・ONIBUS

・verve(鎌倉店出来てから新宿店は少しクオリティ落ちたような気もする)

・Light Up

・ARABICA

・THE ROASTERY

・AND COFFEE ROASTERS

・Little Nap

・Shozo Coffee



忘れてるところもあるかもしれません。

思い出したらまたご紹介します。


あ、巷で人気のブルーボトルさんも、流行りに乗るの嫌で避けてたんですが、先日無事に初体験を済ませました。

フツーにうまかったです。

舐めててすいませんでした。


ちなみにご紹介したコーヒースタンドは浅煎り限定というわけではなく、浅煎りにハマった僕が飲んで美味しいと思ったところというだけです。


次回はしっかりドリップ系のお店もご紹介できたらいいですね。

では。

夜逃げしたいほどの切なさなんてどこかに置いてきた

yonigeである。

 

 

さよならプリズナー

さよならプリズナー

 

 

 

顔で虫が死ぬ

顔で虫が死ぬ

 

auのCMソングなんかも書いちゃって、おそらくネクストスター候補の筆頭バンドとしても認知度が高まりつつあるであろう彼女達。

何を隠そう僕はけっこう好きです。

 

あ、auのやつは別な。

 

あれは完全に周りの大人たちが作らせた感が満載で、もしかしたら牛丸さんとごっきんさんの当人たちがいちばん笑えてない皮肉な曲なんじゃないかと思う。

 

明らかにその前後の作品群とベクトルが違いすぎて、ぶっちゃけ札束の匂いしかしないし、炎上覚悟の言い方をしてしまえば、あれは音楽的枕営業みたいなもんでしょ。

 

もちろん一般的な意味での枕営業ではないけれど、自分らが好きな音楽を好きにやる基盤を作るために、旧来のファンに多少そっぽ向かれるのも覚悟の上で、音楽的に、世間に抱かれに行った曲なんだろうなと個人的には感じている。

 

たぶんこの文章を本人たちが見たら全力で否定されるだろうし、俺は間違いなくアボカドぶつけられて殺されるだろうが。

 

ちなみに最初にも言ったように俺は彼女たちの音楽は好きなので、けっして腐すつもりはないので悪しからず。

というかCMソングやらせるにしても、もうちょっとなんとかしてあげられなかったのか。周りの大人たちよ。

 

とにかく、40のオッサンが、まさにアボカドを後頭部に投げつけられて久しぶりに卒倒しそうになったのが、こんなに青臭いどストレートのギターロックを奏でる女子2人のバンドだったわけで、今日はその辺のことを語らせてもらいます。

 

最近のミュージックシーンって、ある程度のことはほとんど先達がやり尽くしちゃって、そこで注目されるには何かしらの仕掛けが必要で、それは歌詞のヘンテコさだったり、ヴィジュアル含めたポップな変態さ(あくまでコスプレレベルであってマジな変態だと嫌われるので要注意)だったり、言ってしまえばYouTuber的な仕掛けが必要になってきているのではないかとずっと思っていて、だからこそのドラゲナイだったりオオカミ集団だったりゲスな乙女だったりするわけだろうと。

 

もちろん外殻的なところを削ぎ落として行くと、意外とすっぴんの表情がイケてたりするものもあるんだけれど、たぶんそれだけで勝負を挑んだところで勝つことは出来なかったんじゃないかと想像している。

 

これは是か非かという話ではなくて、音楽をビジネスとして成立させていくには単純な曲や音のクオリティだけでなく、ヴィジュアルやキャラクターまでを含めたパッケージ全体のプロデュース能力が求められる、そういう時代になってしまっているだけの話だ。

 

だからこそそんな中で、ヴィジュアル的な仕掛けも特になく(牛丸のハーフ美人感や、お父さんがAC/DCの人だとかっていうポイントはあるけれど、彼女たちはそれを特に売りにしてないはず)、音楽的にもどちらかと言えば日本におけるゼロ年代のギターロックや、weezerに代表されるパワーポップの範疇に収まるサウンドメイキングに留まっているように聴こえるし、そういう意味ではごくごくまっとうにシンプルなギターロック・バンドであるはずなのに、なぜか彼女たちの音楽は新鮮に響くのだ。

 

いや、新鮮というのは違うかな。

オッサンがこういう事を言うと気持ち悪がられるだろうが、なんというか、学生の頃の恋愛を思い出すというか、あの時期特有のなんとなくムズムズする感じ、Awesome City C lubでいうところの『青春の胸騒ぎ』を感じさせてくれるからかもしれない。

 

卒業して、就職して、生きていく金を自分で稼いでいくために働いて、その中で固まりつつある自我をすり合わせながら遊星のごとく引き合った異性と恋に落ち、また別れてを繰り返すうちに恋愛の何たるかを見失い、ロマンスを忘れた中年のオヤジに対してさえ、その感情は失われたのではなく、心の奥のどこかで固く閉ざされた箱の中にしまわれていただけなんだということを思い出させてくれるのが、yonigeの音楽なのだ。

 

この個人的な感覚を一般に敷衍するとすれば、それは即ち、どの世代のどの性別の人間であっても、各々が心のどこかに持っているある種の琴線に、yonigeの音楽はシンプルであるが故に、それぞれの気持ちに合わせて形を変えて触れてくれる、ということになるだろう。

 

だからこそ彼女たちの音楽はそのフォーマットのあり方に関係なく、様々な人達を虜に出来るのだろう、と思う。

 

そういう意味で言えば、まだまだ音楽シーンは捨てたものではないし、これからもこうして時代の潮流から外れつつあるオジサンの心をぐっとわしづかみにしてくれるバンドやアーティストが出てきてくれる可能性もある。

それならば、パッケージとしてよく出来た音楽はそれはそれで素晴らしいけれど、そんなもの関係なしに、みんなが持っている琴線をシンプルにくすぐってくれるストレートな音楽の出現を願ってやまない。

 

なので周りの大人たちに告げたい。

変にいじくんなよ、と。

マニフェスト

ブログやらインスタやら各種レビューサイトやら。


自分の意見を発信できる場があることは良いことだと思うけれど、何かを批判するよりは褒めることを大切にしたい。


悪いところを重箱の隅をつつくように探して論うよりは、良いと思ったことを、何かを良いと思える気持ちを少しでも分かち合うことが出来たらと思う。


自分もそうだけど、素人批評家の根拠のない上から目線の批判なんて、ただの僻みにしか聞こえないんだからさ。